💞【善意と自己満足】
それ、本当に誰かのためになってる?

この前、道に迷ってそうなおばあちゃんに“こっちですよ”って勝手に誘導したら、“そんなこと頼んでないわ”って怒られたっす…ショック…

あら…でも、ケロ坊の気持ちは“良かれと思って”でしょ?

うむ。“良かれと思って”の行動が、必ずしも正義とは限らんのじゃな。
【問題】ある日、公園でベンチに座っている年配の男性が、困った様子で地図を見ていた。あなたは「これは助けた方がいいな」と思ったが、声をかける前に以下のことを考えた。
さて、あなたならどうする?
A. 「大丈夫ですか?」と声をかけ、すぐ助けようとする
B. 声をかけたい気持ちはあるが、まず相手の様子をしばらく見て判断する
C. 「助けたら迷惑かも」と思い、何もせず通り過ぎる
ウサ子姐さん「Aを選んじゃった。助けたい気持ちが正義だと思ってたから」
フクロっち先生「ふむ、それは“行動の動機”としては立派じゃ。それが相手にとって本当に望ましいかどうかじゃな。」
ケロ坊「“してあげたい”より、“必要とされているか”をちゃんと見ることって、大事っすね。」

この問題の本質は、“善意”と“自己満足”の線引きじゃ。
Aのように、すぐ声をかける行動は立派に見えるが、相手が「困っていない」場合には、逆にプレッシャーや不快感を与える可能性がある。
一方、Cのようにまったく無視するのも、社会的なつながりを断つことになる。
Bのように、“助ける前に様子を見て、必要なら手を差し伸べる”という態度は、思いやりと配慮のバランスがとれておるな。
よって、わしならBの“声をかけたい気持ちはあるが、まず相手の様子をしばらく見て判断する”を選ぶかな。
あなたならどうしますか?
ケロ坊:「“助けたい!”って気持ちが、空回りすることもあるんすね。」
ウサ子姐さん:「相手の立場に立って、見守ることも“優しさ”のひとつなのね。」
フクロっち先生:「“行動の前に、相手の気持ちに目を向ける”、それが“押しつけ”と“思いやり”の分かれ道なのじゃな。」
支援活動で、「良かれと思って送った物資」が実は現地の迷惑になった例もある。“行動すること”より、“何が求められているかを理解すること”が、真の支援。

選んだ理由に、自分らしさが表れていたかも?
次回も思考の時間をご一緒に!
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